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ランチとひとりカフェの楽しみ

 3日間かけてやっと「受講生アンケート」なるものを書いて今送りました。締め切りは明日ですから間に合いました。感謝と絶賛の中にもちょっとイタイことを書いたのですが、2期目へのエールだと思ってくだされば幸いです。これを書いてやっと「本当に終わった気分」になりました。

 昨日は久しぶりに受講生仲間4人でランチをしました。もちろんM姫も登場。東京土産にゲル(プリン)とシュウマイをいただきました。どうもですぅ。

 話を聞くと、みなさん一息つくどころか年度末でなにかと忙しそうでした。私はと言えば半年間休んだDTPとWEBのお勉強に行かなくちゃと思っているのですが、なかなかその気になれません。かといってぐーたらしているわけでもなく。

 今したいこと、それは本が読みたいです。
 ですが、家にいるとなかなかそうもできないのが悩み。そこで、時間と場所を決めて「読書タイム」を設けることにしてみました。

 きっかけは、先日、リバネスというバイオの出前授業を会社として展開している東大医学助手の本○さんという女性に会ったことから。本○さんは将来研究者をめざしていらっしゃるそうで、リバネスが本業ではないそうです。それにしてはすごい活動ぶり。

 私が「研究はいつやっているのですか?」と聞いたところ、「研究は10時ごろから夜の6時か8時までやっています。その間はメールも見ないし、携帯も出ないので、みんなにはいつも連絡取れないって怒られているのよ」とのこと。ということはそれ以外の時間で会社をやっているってこと?すご過ぎです。
 でも時間を区切らなければ、どんどん他のことに時間を取られて収集がつかなくなるのはわかります。私も自分で「この時間は勉強する」と決めないと、どんどん生活に流されてしまいます。私の場合は単に邪念が多いだけなんですが・・・(笑)

 まず、どこにしようかと思いついたのが「スタバ」。2日連続で行って、ちょっとお金がかかるので毎日はきついなぁと。「そういえば」と思い出したのが、「イオンお客様ラウンジカード」の特典。一年間ある程度のお買い物をすると送られてくるらしく、存在をすっかり忘れてました。
 さっそくジャスコのお客様ラウンジに行って、びっくり!ソファーがあって、静かだし、飲み物はいろいろ飲み放題だし、お菓子も出てくるサービスさ!タダなのです。「使える!!」と喜び、2時間こもりました。
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で、昨日のお供はこちら。
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 DNAカフェの時にN木さんが「おすすめ」してくれた本です。「もう絶版して売ってないかも~」と言っていたのに、サイエンスカフェの時に紀伊国屋さんが10冊ほど仕入れてくださっていたので手に入りました。

 そして、最近の中村桂子さん(他人じゃないようなお名前)が、JT生命誌研究館のHPにサイエンスコミュニケーションのことで気になるお話を書いていらしたので転載 します。



JT生命誌研究館 「中村桂子のちょっと一言」より
2006年3月1日【サイエンスコミュニケーション】


 最近急にこの言葉がはやってきました。その理由ははっきりしています。世の中で「アカウンタビリティ」が要求されるようになったからです。ここまで書いてきて、サイエンス・コミュニケーション、アカウンタビリティと共にカナであり名詞であることが気になっています。数年前から、できるだけ日本語(やまとことばならなおよい)で、そして動詞で考えることにしています。名詞は“何をやるか”を具体的に示さず、叫ぶだけになりがちだからです。例えば「構造改革」。多くの人は、いったい何を行ない、どういう社会にするのかという具体性を理解せずにいるのではないでしょうか。生命誌は“生きているとはどういうことかについて考え、生きものを大切にし、一人一人が自分らしく生き生き暮らせる社会”を求めていますので、「構造改革」がつくりつつある社会がそれとはまったく違うことが気になっています。金融経済の中で、お金を手にした人を勝ち組と称し、そうでない人に負け組という、なんとも失礼なレッテルを貼ってしまう最近の風潮は、一人一人が「生きる」ことを大事にしていません。その結果、社会が明るさを失ない、下品になっています。何をどのように変え、どのような結果を出すのか。そのために一人一人が何をするのか。動詞で考えると具体的になります。それに対して、名詞は思考停止につながります。立派な言葉を唱えていると立派だと思ってしまうのです。

 横道にそれました。サイエンス・コミュニケーションとアカウンタビリティでした。これも名詞ですが、もう一つの問題は、カナであること、つまりどこか外から持ってきたということです。アカウンタビリティは説明責任と言う意味です。大学や研究所の研究者の場合、資金の多くが税金でまかなわれていることから、納税者に対して自分は何をやっているかを説明する責任があるということで急に浮上してきた言葉であり、そのためにサイエンス・コミュニケーションも必要となったわけです。自分の仕事に対して責任を持つのは当然です。誰に対しても自分の仕事の説明ができなければいけないこともその通りです。ただ私はaccountabilityのaccountにひっかかるのです。これはcount、計算するから来ており、数量的な意味があります。お金をいくら使ったからこれだけの仕事をしなければいけない。そこでこれから「50年間に30人のノーベル賞受賞者を出す」というようなわけのわからない数が出てきます。私は、responsibleでありたいとは思います。responseは、反応すること、社会に対して、他の人々に対してきちんと対応する責任があり、それについて語ることも大切だと思っています。アカウンタビリティとなると、できるだけたくさんの予算が欲しいからそれに見合った説明はしなければいけませんという感じで好きになれません。

 生命誌研究館では、「研究の表現についての研究」を行ない、これまでもさまざまな形での表現を試みてきました。これこそ、“サイエンス・コミュニケーション”だと思っています。でもこれは「説明責任」として行なっているのではありません。ここまでやらなければ研究をしたことにはならないと思ったのです。外から求められたのではなく、内から生れたことなのです。「アカウンタビリティとしてのサイエンス・コミュニケーション」。なんとも空虚な感じがしませんか。もっと空しいのは、「アカウンタビリティとしてのサイエンス・コミュニケーション」活動に、これまでになく大きな予算がついたからやろうという動きです。なんでもお金、お金。お金は必要ですが、最近のお金の動き方は少々荒っぽいのか気になります。実はこの問題について昨年「季刊生命誌」で対話をして下さった写真家の港千尋さんがみごとな“表現”をして下さいました。長くなりましたので、次回に紹介します。

 
http://www.brh.co.jp/experience/communication/topics.html

続き↓ 

2006年3月15日【時間-歴史-物語-人生-・・・】

 先回は、写真家の港千尋さんとお話をしていて生命誌の「誌」にはこんな意味がこめてあるのでしょうと言って下さり、その表現があまりにもみごとで驚いたという紹介をしたところで終りました。私が思っていることを私よりも上手に表現してくれる方がいて下さるって本当にありがたいことです(自分の未熟さに気づかされることでもありますが)。

 「先ほどからお聞きしていて面白いなと思うのは、生命誌の「誌」です。これは物語と歴史との両義を含んでいるヒストリーですね。物語も歴史もどちらも時間を基軸にしているわけですが、その時間の概念を、もう一度科学の中に注入することで、
概念上の変革だけでなく、科学者という人間の生き方も考えて行こうということでしょうか。つまり「人生」と呼ばれる時間も何らかの形で科学に反映すべきだということですね。そうすることで、「正しいか正しくないか」を目的とした従来の科学の価値とは違う「一市民として生きる」人生の価値を導き入れて、倫理や感情も含めた判断から、均質な科学に多様さを取り戻そうとされているのですね。」

 これ以上つけ加えることはありません。アカウンタビリティとしてのサイエンス・コミュニケーションとはまったく違うものが見えてきます。自分の人生と重ね合わせて語るということです。生命誌はこの精神で続けて行こうと思います。港さんとの対談はWebの中の
「季刊生命誌 2005年夏号」に入っていただけるとありますので、是非お読み下さい。
 この港さんの言葉から思いつくのが宮沢賢治です。実は、
「季刊生命誌 2004年秋号」で対談をしていただいた演出家の遠藤啄郎さんと、「賢治讃え」というパチンコ屋の開業記念のような題の公演を企画し、先日無事終えたところです。遠藤さんが、「企画 中村桂子+遠藤啄郎」とプログラムにも書いて下さったので、企画したなどと偉そうなことを書きましたが、実は何もしていません。横浜ボートシアターの方たちが新しい形の劇を創り出していく過程を楽しませていただいただけなのです。でも遠藤さんは親切に、「宮沢賢治ができたのは、生命誌に後押ししてもらったからなんですよ」とおっしゃって、私の次のような文をプログラムに載せて下さいました。

 「『自然は、生きものたちは、皆それぞれが物語っていて、私たちに語りかけてくれる』
 生きものを研究していると、そう思います。皆さん信じてくださらないかもしれませんが、研究のために、カエルやクモやハチからとりだした細胞も、いいえそこから抽出したDNAも、語りかけてくれるのです。その物語りを読みとって、相手を少しでも理解したい。仲良くなりたい。それが研究する気持ちです。」

 物語りであり、人生の反映であるというところが賢治と重なるということでしょう。港さんのおっしゃって下さったことと同じです。
 また予告篇になりますが、「賢治讃え」については次回にということで。
【中村桂子】

私:「科学」に反映できる私の人生を探したいものです。

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